吉川屋

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おらが湯 藤太郎伝説

吉川屋の歴史と開湯にまつわる藤太湯伝説

吉川屋は西暦1841年 (天保12年)創業の歴史ある温泉旅館です。
創業以来、日本の伝統とおもてなしの心を守り続け寛ぎの宿として親しまれて参りました。
開湯にまつわるとされる「藤太湯伝説」とともに吉川屋のあゆみをご紹介いたします。

おらが湯 藤太湯伝説

昔むかし、信達平野の湖(現在の福島盆地)が干上がって、そこが湿地帯になり大作山の麓を奥州街道が通っていた頃のお話。

『赤川』を上って行き、川幅が一番狭くなった所を『川崎』といった。
そこになんと大きな蛇が横たわって、橋の代わりになっていた。
そこ通る村の人も旅の人も大蛇の姿を見るとたいそう驚き、しまいには恐ろしくなって、誰も近寄る人がいなくなってしまった。

ある日、弓を持った立派な若者がそこを通りかかり平気で大蛇の背中を通り、向こう岸へ渡ってしまった。
すると、大蛇がパーッと美しいお姫様に姿を変えた。
「お侍さん、大蛇の背を平気で渡ったのは、貴方お一人です。どうかお名前をお聞かせください」とお姫様が聞いてきた。
「はい。俵藤太と申します」と言いながら藤太が振り返ってみると、年は二〇歳あまりか? この世の人とは思えぬほどに妖しく耀くように美しい女が立っていた。

藤太湯伝説

「お目にかかった覚はありませんが、あなたは誰なのですか?」と藤太が尋ねると、お姫様はそばに歩み寄り、 「私をご存じないのはごもっともです。実は私はこの世の人ではなく、先ほど、赤川のほとりの川崎でお目にかかった大蛇なのです。」と言った。
藤太はそうだったのかと思い当たり、「それではどうしてこのように姿を変えてたずねて来たのですか?」と聞いた。

するとお姫様は、「どうぞ聞いてください。私は日本の国が拓(ひら)け始めた遥か昔から、信(しん)達(たつ)の湖に住んでいるのです。 湖は七度も干上がっては田や畑に変わりましたが、その度毎にうまく逃れて『大作山』の麓の『子守沢』にたくさんの子供たちと幸せに過ごして来ました。
ところが、天武天皇(七五六年)の御代から『摺上川』のほとりに大百足(おおむかで)が現れ、『吉川』沿いに『片倉山』を越えて、私の子供たちを食い荒らしに来るようになったのです。 そのため川は、私の子供達の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれるようになりました。
どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私たちではどうにも力が及びません。 これはやはり器量の優れた方のお力にすがる他無いと思い、あのように大蛇の姿になってお待ちしておりました」と涙を流して頼んでくる。

藤太湯伝説

藤太は一部始終を黙って聞いていた。
『もし事を仕損じたなら、先祖の名折れ・末代までの恥辱である。しかし、神々の加護の下、磨鍛えた武術をもって望めば、必ずや道が開かれる!』と覚悟を決めた。
「分かりました。今夜にも百足を退治して見せましょう」と藤太が答えると、お姫様はたいそう喜んで三本の矢を探してきた。
「これは、私たちの血と涙が流れて沢になった『毒沢』で作った矢です。どうかこの矢であの憎い百足を仕留めてください」というと、お姫様は煙のように消えてしまった。
藤太はすぐさま身支度を整えた。
先祖伝来の大刀を腰に差し、五人張り重藤の大弓を小脇にかかえ、十五束三伏(一五三センチ)もある大きな弓を手にして『天王寺沼』の右手『寺山』に向かった。

夜になり『矢場』に立って『片倉山』を眺めると、稲妻がひらめき、生臭い風が大作山を吹き渡る。 そして、にわかに激しい雨が降り出した。
みるみるうちに『片倉山』の辺りが千本の松明を灯したように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷を揺さぶる。 天王寺雷様の襲来である。

それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ、百足が近づくのを待った。 百足は『穴原吉川』の断崖をよじ登り大地を揺るがして迫ってくる。
藤太は矢が丁度届く頃とみて、弓を力いっぱい引き絞り、百足の眉間を目掛け射た。
しかし、矢は難なくはじき返されてしまった。 藤太は第二の矢をつがえ、一心不乱に引き絞ってひょうと射放った。 だが、この矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。

藤太は進退窮まって、最後の一本の矢をなおし「南無(なむ)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)」と祈った。 すると、あら不思議!貝がら山の岩場から天狗様が舞い降りて「これ藤太!百足の目を狙え!」と藤太を叱咤した。
藤太は、「神の加護我にあり!」と弓を引き絞り、ひょうと射た。
弓は狙いたがわず百足の目に突き刺さる。

藤太湯伝説

その瞬間、天王寺雷様のものすごい音もぴたりと鳴り止んでしまった。
「百足め、息絶えたか?」と辺りを調べると、百足は『片倉山』から『ムジナ山』にかけて長々と横たわっていた。

次の朝、嵐が過ぎ去った『大作山』の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。 色鮮やかな若草・季節の花々・きのこ・蝶などが生き生きとし、生けるすべてのものに光のそそぎ、岩から流れ落ちる滝は、嬉しげに踊るように流れている。

お姫様は「貴方さまのおかげで、日ごろの仇を退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と礼を述べ、感謝の印にと黄金千枚・漆千杯・矢千本を差し出した。
しかし藤太は、「この度の事は、武門の誉れ、我が身の面目です。これ以上望むものはありません。贈り物は辞退したい」と言った。
お姫様は、この恩にどうにかして報いたいと思い、「麓の湯沢の滝のほとりに佐波来の住む里があります。第一二代景(けい)行(こう)天皇の御子(みこ)日本武専(やまとたけるのみこと)様が東征の折、病に伏し佐波来湯に入浴したところたちまち平癒したと言われる霊泉があります。私がご案内しますので、どうぞおいでくださいますよう」と心をこめて言った。
「日本武専様がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血で穢れた体を洗うのは、あまりに恐れ多ことです」と藤太は断った。

藤太湯伝説

お姫様はほとほと困って、故郷である竜宮の乙姫様に相談した。すると乙姫様は大作山の難儀を取り除いてくれたことを大変喜び、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血で汚れた衣服を流しなさい」と啓示した。
藤太は再三再四の親切を断るのも心ないと思い快く承知して、言われた通り泉で汚れた衣服をすすいだところ、なんと!冷たい清水がだんだん暖かくなり、熱い温泉が湧いてきたではないか。
藤太は、「いやー、不思議なことがあるものだ」とゆったり温泉に浸かり、昨夜の激戦の疲れを癒したそうな。

おしまい

※伝説のイラストは吉川屋の若旦那 畠正樹 作です。

藤太湯伝説

藤太湯伝説の俵(たわらの)藤太(とうた)とは?

平安時代中期の武将、藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと)(生没年不詳)の幼名である。
近江の国(現在の滋賀県辺り)田原の生まれで藤原家の長男だったことから、田原藤太秀郷(たわらとうたひでさと)と呼ばれていたのだという。
また龍神より米の尽きない俵を授かったことから、俵藤太と呼ばれるようになったともいわれる。
下野(現群馬、栃木県辺り)に勢力を持った武士で西暦九四〇年、平将門の乱に際して、平貞盛とともに将門を討ち、その功績により従四位下に叙され、下野守に任ぜられた。
この将門との戦の際、秀郷が将門を直接弓で射たと伝説にはある。
源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出し、子孫のなかには、源義経の家臣だった佐藤継(つぐ)信(のぶ)・忠(ただ)信(のぶ)兄弟がいる。
この佐藤兄弟は吉川屋からほど近い医王寺に祀られている。
兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた義経は、忠誠を尽くしてくれた誇り高き奥州武者・佐藤兄弟を弔うためここ医王寺を訪れ、遺髪を葬り厚く供養したと伝えられている。

それからの藤太湯

それから185年後の天治2年(1125年)大鳥城主佐藤師治(すえはる)が、藤太湯を再興し、佐藤家専用の温泉にして、当座湯(とうざゆ)と名付けます。

文治2年(1189年)に、当座湯が枯渇します。この時代に、佐藤公清からの6代目の佐藤基治(もとはる)がいます。 佐藤基治は鵬城主で、医王寺にお墓があります。

1578年に、堀切家の主導で、赤川の流れが変えられます。そのせいか、堀切の地(おそらくは摺上川沿い)に温泉が湧き出ます。 再び、当座湯と呼ばれました。

1804年、赤川がまたも氾濫し、現在の湯沢に温泉が出ます。上記の当座湯とは若干場所が異なるかもしれません。 温泉が地面の下を透過して別の場所へ達して湧き出たので、透達湯(とうたつゆ)と呼ばれます。

1992年に、建物の老朽化のために透達湯は取り壊されました。その場所に、現在の鯖湖湯が建っています。1889年に建築された鯖湖湯は、 30m離れた小さな公園に建っていました。いにしえの佐波来湯、藤太湯、当座湯、透達湯は、1992年に復元された今の鯖湖湯に受け継がれています。